Webアプリ "Pazzla" instagramの画像を使ってあなただけのモザイクを作成。
実は僕密かにPythonを勉強中なんです。NYTimesでData Visualizationって技術が使われていて面白いなーって思ったのがきっかけでした。調べてみるとPythonがよく使われるとのことでとりあえず始めたはいいものの、まだPythonを理解するのに精一杯のレベルです。まぁExcelでもやろうと思えば出来るし、Tableauっていうプログラミングの手間を省けるソフトもあるんですけど、せっかくPythonの勉強はじめたからこれでやってみようということで地道にやってます。
でそのData Visualization関連で調べてて面白いアプリ見つけたんでよかったら遊んでください。
これはinstagramにアップされた画像のみを使って、モザイクを勝手に作りますよってやつです。
1. Log in via Instagram インスタからログインして下さい。
2. Upload an image (jpeg or png) 画像をアップロード。
3. Choose a hashtag to find puzzle elements ハッシュタグを付けて下さい。
4. Start compiling and enjoy the process 開始してプロセスを楽しんでください。
5. Share your puzzle シェアして下さい。
ちなみにAccuracy(正確度)何%とか出るんですけど100%にはならないようになっています。なのでいいと思ったところで止めてください。
出来上がった画像を保存するには**Macの場合** 「Command + Shift + 4」で選択範囲を保存、「Command + Shift + 4」でページ全部を保存できるのでそれがいいと思います。
こんな感じで。
このpazzla、このサイトで見つけました。他にも面白いものあるかもしれないんでよければ見てください。
和訳(3) [A Tribe Called Quest] Phife Dawg インタビュー 2015 : 25年の軌跡
引用元はこちら
1990年は世界中で激動の時代となった。3年後、ローランド・レーガンのあの有名なスピーチの後にベルリンの壁は崩壊し、冷戦は終わりを迎えた。サダム・フセインはクウェートを侵略、湾岸戦争が勃発。そして、アメリカの文化もその姿を変えていったのだ。この年にはシンプソンズやセインフィールドが生まれ、ダンス・ウィズ・ウルブズは初公演を迎え、ベット・ミドラーは"Wind Beneath My Wing"でレコード・オブ・ザ・イヤーに輝いた。
ヒップホップでは、1990年にPublic EnemyのFear of a Black PlanetとIce CubeのAmeriKKKa's Most Wantedといった、人種・政治・社会の経済的な不公平さに鋭く言及するアルバムが生まれた。そういった動きがある一方で、MC Hammer(彼の"U Can't Touch This"は翌年グラミー賞ベストラップソロ部門を獲得する)やVanilla Ice("Ice Ice Baby"でノミネートされる)のような派手なパフォーマーも出てきた。また全く異なるところでは、幅広くかつ知的な探求と鋭い意見、また商業的なアピールに見事なバランスを保った集団、ネイティヴ・タンが現れた。Queen Latifah、De La Soul、そしてJungle Brothersがこのメンバーに含まれる。
これらの動きの後を追って、混沌としたヒップホップを違った方向に導いていった集団がクイーンズとブルックリンのネイティヴ・タンのクルーにいた。彼らの名はA Tribe Called Quest。1990年4月10日、彼らはJive Recordを通じてデビューアルバムのPeople's Instinctive Travelsとthe Paths of Rhythmを出した。メディアは即座に"Can I Kick It"、"Bonita Applebum"、"I Left My Wallet in El Segundo"などの代表作を取り上げ、そのアルバムはヒップホップの歴史の中でのちに、五つのアルバムの出版、そして解散、再開、ドキュメンタリーの作成ともっとも有名で理想的なキャリアの起点となった。
デビューから25年を記念し、彼らはアルバムを、Pharrell Williams, CeeLo Green, そしてJ Coleがリミックスを手がけたボーナストラックを付け加えて再リリースしようとしていた。そのため私はPhife Dawgにインタビューを行い1990年に今一度私を連れて行ってくれるようお願いしてみた。そう。彼がまだ、ただの子供でラップとバスケットボールの観戦をこよなく愛した、St. Albansに住んでいた頃の時代へ。
Noisey誌: 1990年頃はどんな生活を送っていた?
Phife Dawg: 俺は19歳から20歳になろうとしてた。実はまだおばあちゃんの家に住んでて表の路地でバカみたいに走り回ってたよ。ふざけてばかりさ。(笑) まだ本気でファーストアルバムに関わってなかった。俺がやったのは15曲の内の4曲だけだ。Q-Tipが全部の歌詞を書いたんだ。俺はスタジオにあまりいなかった。トライブはQ-TipとAliがやってたんだ。Jarobiと俺は後からさ。でもJarobiが料理の勉強のために大学に戻るってことになった。俺たちはクルーの一部だったけど本当の意味でのメンバーではなかった。The Low End Theoryに取り組むまで俺はメンバーにはならなかったんだ。
正式に加入した時はどうだった?
大人になるのに時間がかかったよ。でも母と父と祖母を経済的に助けれるってなって、どれだけ遊びじゃないかってことに、そしてどれだけリアルで素晴らしいかってことに気がついた。ゆっくりとしかし確かに俺は一人前になったんだ。もちろん他の人より成長が遅い人はいる、でも俺はただ頑固になってただけだとも言えるかもな。
どう頑固だったんだい? ただの友達とのいざこざ?それとも結構深刻なトラブルがあったの?
俺は別に訳のわからないことをするようなガキじゃなかった。そんなことじゃない、ただ時間を守ったりとか、人に対して敬意を払って接せれるかとか、自分にして欲しいことを人にもしてあげるとかそういった類のことさ。(現実は)Linden Boulevardや192nd St.だけが全てじゃなかったんだ。近所が全てではなかったんだ。俺はそういった部分で成長しなければならなかった。ビジネスマンにならなければいけなかったのさ。自分だけじゃなくグループの他の奴らをも背負ってるって自覚しなければいけなかったんだ。
Screenshot via YouTube
あの頃は何をして遊んでた?
クラブやコンサート、ニックス(NY Knicks)の試合にいくことかな。俺たちが最初のアルバムをレコーディングしたところはMadison Square Garden(マンハッタンの有名なスタジアム)から1,2ブロックほどの場所だったんだ。後、ほとんどの他のアルバムもBattery[Mastering Studios]でやった。そこもMadison Squareから何ブロックかのとこさ。
コンサートはどこに行ってた?
The Ritzだね。後はWebster Hall。いろんな場所があるよ。Marsってとこもあってそこもショーをやってた。クイーンズの高校のクルーと一緒に毎週火曜日の夜にNew Jerseyのスケートリンクにも行ってたな。もちろんそれはスタジオでの仕事がない時にしてたことだ。あれはローラースケートリンクだった。でも女の子はみんなそこに行ってたんだ。俺たちもそこにいたよ。ただスケートはしなかった。女の子を引っ掛けてたんだ。もし俺がスケートなんかしてたらコケて痛い目みるだろ?
当時はどんな格好をしてたんだい?
いつもジーンズとティンバランドだったな。俺はニュージャージーの人間だ。お前がニュージャージーで思いつく物は全て持ってたよ。天気によってはSnorkel jacketを着てたし、春はStarter jacketを着てた。それがいつもの俺のスタイルだったんだ。
君が最初のアルバムのレコーディングにあまり立ち会わなかったのは分かったけど、その時のことについて覚えてる?
俺が覚えてるのは、ある部屋にはJungle Brothersがレコーディングしていて他の部屋ではDe La Soulもやってたな。Queen Latifahもまた違う部屋でやってた。Tribeの予定が特にないときでも俺たちはただ遊びにそこに行ってたんだ。あそこではコツを学んだりクリエイティブになれたし、とてもいい時間を過ごせたな。冗談を言い合ったりブースでいろいろやったり。俺たちは家族だった。Native Tonguesてのは名前だけじゃなくて、本当の家族のようなものだったんだ。
パーティーのような感じかい?君達は酒やタバコはスタジオでやったりとか、そんな感じではなかったの?
あれはそんな感じではまったくなかった。もしかしたら誰かは他のグループでやってたかもな。でもあそこでは酒やタバコはなしだった。いいものを食べたりとかはあったけどな。
そこで録った、特に印象的な曲みたいなのはある?
そうだな、Q-Tipが"Footsteps"を作った時は、「このレコードはやばいぜ」ってなったんだ。でもそれから、この曲がシングルで出さなかったことにすごく腹を立てた。 まぁ何か理由があったんだろうけどな。
あの頃誰が月間の"レコードトップ10"いるか知るために、ビルボードのチャートにいつも目を通してたんだ。Sinead O'ConnorやJanet Jackson、Paula AbdulにMichael Bolton、そしてAerosmith。とまぁこんな感じだったんだけど、あの時君はそういう(有名どころの)音楽について、どう思ってたんだい?
俺はJanet Jacksonの大ファンだった。Sinead O'Connorも好きだったよ。あの頃はいい時代だったと思うよ。俺たちはヒップホップをやってたけど、別にヒップホップにすごく固執するわけでもなかったんだ。特にJarobiはね。やつは何でも歌うよ。あの頃俺たちは歩きながら"Walk Like An Egyprian"を歌ってたな。(笑)
"Ice Ice Baby"と"U Can't Touch This"も1990年だったよね。あんな感じのヒップホップについてはどう思ってた?
ノーコメントだ。終わり。Hammerのビデオはミーハーな女子たちが見るもんだ。分かるだろ?
Tribeはもちろんそういうのとは違う方向に行こうとしてたと思うんだけど、みんなが認識していた"ヒップホップ"とか"ラップ"に対しての挑戦的な姿勢で音楽を作ろうとしてたのは、意識的にしてたのかい?
俺たちはただ自分たちのやりたいようにしただけさ。でもみんなそうだろ? Hammerも多分そうだっただろう。全力でしてたし、それが彼なんだ。同じことさ。
LL Cool Jについてはどうだった? "Mama Said Knock You Out"をリリースしたのは"People's Instinctice Travels"が出てから5ヶ月後のことだったよね?
LL Cool Jはレジェンドだ。彼が90年代にやってたことについて何も文句なんか言うつもりはないよ。彼にも自分の時間があっただろうし、今はすごい俳優だ。もちろん未だに超ドープなMCの一人さ。LLで俺は育ったんだ。出身の場所も同じだし彼がラップしてる時から知ってる。彼がいずれビッグになるとは思ってたけど、どれくらいビッグになるかはわからなかったよ。
レーベルが君たちにコマーシャルにもっと出て欲しい、なんて意図を感じるようなことはあった?
たくさんはなかったな。多分Jive Recordsは俺たちの行きたい方向に気づいたんだろう。それだけさ。"El Segundo"のシングルを出して意思表示したんだ。「これがトライブだ。」ってな。それから彼らは俺たちのやり方でやらせてくれた。レーベルがコマーシャルに行くように仕向けるようなことは別になかったよ。
Tribeは聴いてる人にいろいろ考えさせるような曲が多いことで知られてるけど、ほとんど全部のATCQについての記事で"Afrocentric(黒人社会学)"って言葉が使われてる。これらの文化をとても大事にしてる? それとも別にそうでもない?
幾つかは本当のことさ。俺の母は俺をとても黒人らしく育ててくれた。とても黒人らしい家に生まれたんだ。Kwanzaaを祝うこともあるしそういった類のことさ。でもQ-Tipほど感化されてるわけではないんだ。ただ、俺は何が正しいかは分かるし、本当にラップがしたかっただけさ。確かに影響はあっただろうが、それに盲信することはなかったよ。着なければいけない衣服とかもあったけど別に着なかった。さっきどんな服を着てたか質問してただろ?俺はDashikis(民族衣装の名)も別に着なかった。確かにあれはかっこいいけど、蛍光色は好きじゃないんだ。
初めて店でA Tribe Called Questのレコードを見た時を覚えてるかい?
ああ、クイーンズのレコード屋に遊びに行ったらTribeのアルバムがそこにあったんだ。ハッとしたよ。なぜって、俺は何日に出るかなんて特に知らなかったからさ。あそこで見れた時はとても嬉しかったな。他の俺が買いたかったアルバムたちと一緒に棚に並んでるんだ。
その棚には他にどんなアルバムがあったんだい?
EPMDのStrictly Business、Big Daddy Kaneの最初のアルバムのLong LIve The Kane、Biz MarkieのGoin' Off、Boogie Down ProductionのCriminal MindedとBy All Means Necessaryだな。どれもお気に入りのグループやMCたちだ。その隣に俺たちのが並んでるんだ。最高さ。
そのレコード屋の名前は?
Jamaica AvenueにあるThe Music Factoryて名前だった。あそこにはDa BeatminerzのMr.Waltが働いてたよ。彼はDJ Evil Deeの実の兄なんだ。彼らはプロデューサーでBlack Moonのレコードをたくさん出した。Heltah Skeltahのレコードもたくさんやってたな。あとBoot Camp Clikの全部の曲。あの店に行って彼と遊んでたよ。
そこで一日中レコードをかけてた?
ああ。Tribeに本腰を入れる前は俺はそこで働こうとしてたんだ。あの時、俺はただ音楽に囲まれたかっただけだったんだ。
A Tribe Called Questが本格的に動き出してた時、君は若い人々を代弁してやっていたの?どういう意図があったんだい?
俺たちはもちろん若者に向けてやってた。その中でも耳を傾けてくれるようなやつらにね。Tribeだけじゃなくヒップホップは若い奴らのものだった。
"Can I Kick It"で君は市長のDinkinsについて言ってたね。君はいつもQ-Tipよりも軽めのラップだったと思うんだけど、何故政治についてのことを言おうと決めたんだい? Dinkinsが初のNYCの黒人市長だということはそれほど重要だった?
彼はNew Yorkを代表してたんだ。オバマが大統領になったことくらい大事なことさ。黒人の市長はとても少なかった。アトランタのAndrew Young、シカゴのHarold Washington、そしてデトロイトのKwame KilpatrickとDave Bing。たくさん起こることじゃない、とても大事なことだったんだ。俺が育った時代はKochが市長だったことしか覚えてないよ。
あの当時、NYの若い黒人の子達にとっての大事なことってなんだったと思う? 現在、警察とのことでいろいろ起こってるけど、別に何も真新しいことではないよね。
何も変わってないよ。警察は残酷さ。いい車に乗ると絶対に警察に付けられるか、道に寄せられる。本当に何も変わってない。悪くすらなってる。
もう既に悪化している? それとも問題が目に見えるようになってきた?
確実に問題が見えるようになってきてる。でもまだ悪化してると思う。警察のこと、そして差別。問題は無くならないんだ。
People's Instinctive Travelsが出た時のたくさんの古いレビューを読んだんだ。君のオリジナリティーについて様々な批評があった。Rolling Stone誌でさえ、あのアルバムは長くは聴いてられないって、大学のラジオがベストだなんて言ってたね。今思い返してなにか言い返したいことはある?
別にないな。最終的には全てはただの意見であって、もしそれぞれの人がそのように感じたことであるならそれは素晴らしいことなんだ。なんでもいいんだ。今でも彼らは同じことをしてる。でも全ていいことなんだ。
--終わり--
和訳(2) Kev Brownのインタビュー記事
原文(original) : KEV BROWN INTERVIEW : GRINDIN
文脈が噛み合ってないとことかあるかもしれませんがご容赦ください。
アメリカのプロデューサー達にとってブラジルは、別に旅行するのに変なところでもなんでもない。では、一体何がLow Budgetのラッパー兼プロデューサーのKev Brownの話が脚光を浴びる要因となったか? それは彼がブッキングした二つのショーにある。一つはリオデジャネイロ、もう一つはサンパウロのショーである。
ブラジルに行った理由は?
Kev: ショーがあったんだ。ちょっとしたミニツアーさ、サンパウロとリオデジャネイロにね。ドープだったよ。二つの雰囲気の違ったエリアなんだ。サンパウロの俺が居たところはもうちょっと都市って感じのところで、ビーチとかいろいろあって、それでも一つのでかい都市なんだ。あそこにはいろんな文化があったよ。アートが好きな人たちもたくさんいて異なる生活文化が入り混じっているんだ。リオは観光地として有名だ。コパカバナとかね。でももちろんそれだけじゃないさ。ブラジルは発展途上国だろ?だから全部が魅力的で素晴らしいってもんでもなかったんだ。
で、予定してたより長く滞在したんだって?
Kev: ああ、ショーとか他にもいろいろドープなものだった。でもまぁ、もうちょっと長居するよう説得された、とでもいうかな。これ以上はもう言わないでおくよ。
ブラジルでの経験はどんなものだった?
Kev: あそこは文化がとても豊かさ。ブラジルについて説明するのは難しいね、なぜかって俺は二ヶ月しか向こうに居なくてあまり周りが見えてなかった。だから簡単に説明は出来ないよ。でもいろいろと向こうの文化に触れたよ。カポエラとかね。俺は何も...顔にキックを喰らおうとなんてわざわざしなかったけどね。なぜならそれはダメだからさ。本当のカポエラだからな。Pai Luaには感謝するよ。彼と彼の友達が俺をカポエラの場所に連れてってくれたんだ。そして俺は実際に本当のやつを見たんだ。音楽が演奏される中、彼らはひっくり返ったりいろいろしてたよ。ヤバかったね。
あと、向こうにはなんでもあるんだ。アメリカ人はすべての種類の音楽が聴けるだろ? でもブラジルの方では、たとえばソウル、あそこにはブラジルのソウルミュージックがあるし、ジャズもある。おそらく長い時間をかけてもすべてのソウルミュージックを細かく分類するのは出来ないほどだろうね。彼らには自分たちのソウルミュージックがあるんだ。ジャズもね。いろんなジャズがあってとても豊富さ。もちろんサンバ、ボサノバもブラジルから来てるしね。あるジャズの曲やみんなが毎日聴いてる音楽もそうだよ。たぶんみんなが気付いてないだけでね。
どういう経緯で"Brazil Dedication"を作るに至ったんだい?
Kev: えーと、俺は場所がどこでも関係なくビートを作ってたんだ。たくさん作ったよ。ホテルや友達の家、スタジオでもね。それでいくつかの曲はブラジルのアーティストともやろうと予定してたんだ。だからその時はちょうど彼らとするために新しいビートを作ってたな。家に帰ってクルーのみんなに長めのビートテープを聴かせてから他の友達にも聴いてもらったよ。「これを公開するのかい?それとも…」彼らはこう聞いてきた。そして滞在の最終日にむこうのレーベルはこう言ってきたんだ。「ヘイ、なにかやりたいプロジェクトはないかい?」…むしろ、やらないわけないだろう? 俺はブラジルに行った。すごくいい経験になったよ。
Bailie Black Remixについて話してくれ
Kev: YouTubeにいけばオリジナルを聴けるよ。(そのオリジナルの)アーティストの名前はHyldonというんだ。リオでショーをやったときにその向かいに出ていたDNGって名前の、服を売ってる屋台があって、そこで彼と出会ったんだ。そのときは本当に一緒に仕事をすることになるとは思ってなかったけど、まぁ世界は狭いな。後に彼を知ってる人と何人か出会って結局一緒にやることになったんだ。彼は俺にRemixをしてくれと頼んできた。だからとりあえず彼のショーを一つ見に行ったんだけど、あれは凄かった。俺をライムをさせるためにステージに呼び出してきて、しかもみんな俺のこと知ってるようだった。あんなこと滅多に無いさ。俺はラッパー一筋ってわけでもないし、とにかくとても驚いたよ。で、その後彼とまた会ってRemixを頼まれた。D'angeloみたいなのにしてくれって言ってきたのはよく覚えてるよ。一応いいよって言ったけど、俺は彼がファンキーでソウルなやつをやりたいと思ってたんだ。そしてそのあと彼は音源を全部くれたから、それをPai Luaの家に持って行った。彼もまたブラジル出身のMCだからね。彼の家に泊まったよ。彼のお母さんが毎日ご馳走してくれるんだ。やばいだろ?
本来のブラジルを見てきたかい?
Kev: もちろんさ。Kev Brownのツアーって感じでは絶対なかったよ。単に俺がブラジルにいただけさ。いろんな人に出会ったよ。もちろん今話してることはただの二ヶ月間の旅の話だけどね。でも見たよ。彼の家で彼はアルバムを作ったりしてたし、俺もそのためのビートを作ってた。
出会う前から彼らは君のことを知っていたのかな?
Hyldonが知ってたかどうかは分からない。ただ、Pai Luaはもちろん俺のことを知ってたよ。ブラジルに行く前に彼とはFacebookで連絡を取ってたからね。でもHyldonはいろいろ詳しいんだ。電話でPai Luaの家にかけてきて彼と話したのを覚えてるよ。Alicia Keysを聴いてたんだ。つまりいい音楽を知っているのさ。しかしそれでも、スタジオのセッションに混じったり実際の演奏をサンプリングしたりってのは普通じゃなかったな。
それはどんな感じだったんだい?
とてもイケてたよ。クールだった。いつもと違うのは、俺はいつもサンプルを弄るんだが今回のはすでに十分ヤバかったからあまり弄ることが出来なかったってことかな。いつもなら俺がサンプリングしたやつはすべて変わるんだ。ある程度の自由が効くのさ。ピッチも変えれるしチョップもする。ただ彼は歌手だからあまり変えすぎたりすることは出来なかった。それでもベースラインは入れれるし少しギターもチョップすることが出来るから少しだけ違うものにしたんだ。ドラムも変えた。ホーンのところはそのままさ。70' discoって感じだろ? まぁYouTubeでオリジナルを見てみてくれ。Soul Trainのクリップが実は入っててみんな踊ってるんだ。でもRemixの方はもうちょっと… Battlecatの曲のようだってみんなに聴かせたらそう言ってるから、そんな感じだな。
向こうでは何をするのが好きだった?
スタジオでのセッションと友達と一緒にいる事以外では…そうだね、ビーチに行くのが好きだったな。俺は前までビーチに行ったりするようなやつじゃなかったんだ。アメリカでのビーチに行った回数なんか片手で数えるほどさ。でもあそこでは海に入ったりいろいろしてたしそれが普通だったんだ。シャツと短パンで毎日遊んでたよ。笑 もし停電なんか起きても別に彼らは動じないだろうね。ショップでも、ろうそく点けて電卓使って終わりさ。電気なんかに頼らないんだ。
ブラジルは発展途上国としてどうだった? 何か衝撃的な事はあったかい?
ああ、間違いなくあったよ。ハードコアなんだ。あそこにスラム街があって衝撃だった。普通リッチなやつらは山の方に住んでるって思うだろ? もちろんそういう場所もあるんだけど、山の方にもスラムはあるんだ。あれは見ていてとても変な気分になる。山だぜ? 裕福なやつらは山の方にいるから、銃とか麻薬(crack)が街に来たとかそんなやばい話を教えてくれた。イメージしてみてくれよ。あれは少なくとも俺らにとっては初めてでも彼らにとってはそうじゃないんだ。多分何年か前にもあったんだろうな。政府についてもいろんなやばい事があったよ。ブラジルもいろいろ問題があるのさ。女性の扱われ方とか、沢山あるよ。
なるほど、そういえばブラジルの旅を本にするつもりだって言ってたよね。どんなテーマになるんだい?
映画になるだろうな。そしてDenzel Washingtonが出演してオスカー賞に輝くのさ。笑 冗談は置いといて、いくつかのショーのシーンは絶対に使う事になるだろうね。ビーチも使う。アクションとかそんな感じにはならないな。多分ドラマ、ドキュメンタリーのようなやつさ。それでもブラジルのことだけになるだろうけどね。おれの一生涯を描くようなやつにはならないよ。「見ろよ、これがおれがブラジルで過ごした時の生活さ。あそこに行って結局二ヶ月過ごしたんだ。」みたいな感じだろうね。ほら、もうこれで映画になるじゃないか。何が起こったのか、何がおれをそこに居させたいと思わせたのか。そして帰る時の様子。でも見る側に想像させる余地を残さないとね。"Brazil Dedication"を楽しんでもらえるように。
思い返してみるとブラジルに行ってから君は変わった?
変わったね。一つ目に、ミュージシャンとしてね、ブラジルにはファンがいるだろう? これはWellington(New Zealand)や他の国に来た時に一つ気付いたことなんだが、オーストラリアとニュージーランドである日、俺を連れて来てくれた友達は「この寒い天気を曲にしようと思う」って言ってて、ちょうど俺も同じことを考えてた。 そして俺をブラジルに連れて来てくれた友達は「ヘイ、お前が冬に曲を出しても、こっちに来る頃は夏なんだぜ。」て言ってくれたんだ。もう頭が吹っ飛んだよ。俺は秋に曲が出ると思ってたからね。外は寒くて木から葉が落ちたり、あの季節だ。ドライブが好きな俺たちのまわりのやつらがいるから、いい天気の時は一緒に車に乗ってLow Budgetの曲を流すんだ。 でもブラジルでは毎日夏だろ? ミュージシャンもそこではオープンになるんだ。 よくミュージシャンって視野が狭くなりがちだからね。でもオープンになれるから刺激になるんだよ。 そしてそこのみんなは俺の、Kev Brownの新しい曲を待ってるのさ。そしてビーチに行ってKev Brownの曲を流すんだ。ドープだろ?
Interview by Aleyna Martinez