和訳(3) [A Tribe Called Quest] Phife Dawg インタビュー 2015 : 25年の軌跡
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1990年は世界中で激動の時代となった。3年後、ローランド・レーガンのあの有名なスピーチの後にベルリンの壁は崩壊し、冷戦は終わりを迎えた。サダム・フセインはクウェートを侵略、湾岸戦争が勃発。そして、アメリカの文化もその姿を変えていったのだ。この年にはシンプソンズやセインフィールドが生まれ、ダンス・ウィズ・ウルブズは初公演を迎え、ベット・ミドラーは"Wind Beneath My Wing"でレコード・オブ・ザ・イヤーに輝いた。
ヒップホップでは、1990年にPublic EnemyのFear of a Black PlanetとIce CubeのAmeriKKKa's Most Wantedといった、人種・政治・社会の経済的な不公平さに鋭く言及するアルバムが生まれた。そういった動きがある一方で、MC Hammer(彼の"U Can't Touch This"は翌年グラミー賞ベストラップソロ部門を獲得する)やVanilla Ice("Ice Ice Baby"でノミネートされる)のような派手なパフォーマーも出てきた。また全く異なるところでは、幅広くかつ知的な探求と鋭い意見、また商業的なアピールに見事なバランスを保った集団、ネイティヴ・タンが現れた。Queen Latifah、De La Soul、そしてJungle Brothersがこのメンバーに含まれる。
これらの動きの後を追って、混沌としたヒップホップを違った方向に導いていった集団がクイーンズとブルックリンのネイティヴ・タンのクルーにいた。彼らの名はA Tribe Called Quest。1990年4月10日、彼らはJive Recordを通じてデビューアルバムのPeople's Instinctive Travelsとthe Paths of Rhythmを出した。メディアは即座に"Can I Kick It"、"Bonita Applebum"、"I Left My Wallet in El Segundo"などの代表作を取り上げ、そのアルバムはヒップホップの歴史の中でのちに、五つのアルバムの出版、そして解散、再開、ドキュメンタリーの作成ともっとも有名で理想的なキャリアの起点となった。
デビューから25年を記念し、彼らはアルバムを、Pharrell Williams, CeeLo Green, そしてJ Coleがリミックスを手がけたボーナストラックを付け加えて再リリースしようとしていた。そのため私はPhife Dawgにインタビューを行い1990年に今一度私を連れて行ってくれるようお願いしてみた。そう。彼がまだ、ただの子供でラップとバスケットボールの観戦をこよなく愛した、St. Albansに住んでいた頃の時代へ。
Noisey誌: 1990年頃はどんな生活を送っていた?
Phife Dawg: 俺は19歳から20歳になろうとしてた。実はまだおばあちゃんの家に住んでて表の路地でバカみたいに走り回ってたよ。ふざけてばかりさ。(笑) まだ本気でファーストアルバムに関わってなかった。俺がやったのは15曲の内の4曲だけだ。Q-Tipが全部の歌詞を書いたんだ。俺はスタジオにあまりいなかった。トライブはQ-TipとAliがやってたんだ。Jarobiと俺は後からさ。でもJarobiが料理の勉強のために大学に戻るってことになった。俺たちはクルーの一部だったけど本当の意味でのメンバーではなかった。The Low End Theoryに取り組むまで俺はメンバーにはならなかったんだ。
正式に加入した時はどうだった?
大人になるのに時間がかかったよ。でも母と父と祖母を経済的に助けれるってなって、どれだけ遊びじゃないかってことに、そしてどれだけリアルで素晴らしいかってことに気がついた。ゆっくりとしかし確かに俺は一人前になったんだ。もちろん他の人より成長が遅い人はいる、でも俺はただ頑固になってただけだとも言えるかもな。
どう頑固だったんだい? ただの友達とのいざこざ?それとも結構深刻なトラブルがあったの?
俺は別に訳のわからないことをするようなガキじゃなかった。そんなことじゃない、ただ時間を守ったりとか、人に対して敬意を払って接せれるかとか、自分にして欲しいことを人にもしてあげるとかそういった類のことさ。(現実は)Linden Boulevardや192nd St.だけが全てじゃなかったんだ。近所が全てではなかったんだ。俺はそういった部分で成長しなければならなかった。ビジネスマンにならなければいけなかったのさ。自分だけじゃなくグループの他の奴らをも背負ってるって自覚しなければいけなかったんだ。
Screenshot via YouTube
あの頃は何をして遊んでた?
クラブやコンサート、ニックス(NY Knicks)の試合にいくことかな。俺たちが最初のアルバムをレコーディングしたところはMadison Square Garden(マンハッタンの有名なスタジアム)から1,2ブロックほどの場所だったんだ。後、ほとんどの他のアルバムもBattery[Mastering Studios]でやった。そこもMadison Squareから何ブロックかのとこさ。
コンサートはどこに行ってた?
The Ritzだね。後はWebster Hall。いろんな場所があるよ。Marsってとこもあってそこもショーをやってた。クイーンズの高校のクルーと一緒に毎週火曜日の夜にNew Jerseyのスケートリンクにも行ってたな。もちろんそれはスタジオでの仕事がない時にしてたことだ。あれはローラースケートリンクだった。でも女の子はみんなそこに行ってたんだ。俺たちもそこにいたよ。ただスケートはしなかった。女の子を引っ掛けてたんだ。もし俺がスケートなんかしてたらコケて痛い目みるだろ?
当時はどんな格好をしてたんだい?
いつもジーンズとティンバランドだったな。俺はニュージャージーの人間だ。お前がニュージャージーで思いつく物は全て持ってたよ。天気によってはSnorkel jacketを着てたし、春はStarter jacketを着てた。それがいつもの俺のスタイルだったんだ。
君が最初のアルバムのレコーディングにあまり立ち会わなかったのは分かったけど、その時のことについて覚えてる?
俺が覚えてるのは、ある部屋にはJungle Brothersがレコーディングしていて他の部屋ではDe La Soulもやってたな。Queen Latifahもまた違う部屋でやってた。Tribeの予定が特にないときでも俺たちはただ遊びにそこに行ってたんだ。あそこではコツを学んだりクリエイティブになれたし、とてもいい時間を過ごせたな。冗談を言い合ったりブースでいろいろやったり。俺たちは家族だった。Native Tonguesてのは名前だけじゃなくて、本当の家族のようなものだったんだ。
パーティーのような感じかい?君達は酒やタバコはスタジオでやったりとか、そんな感じではなかったの?
あれはそんな感じではまったくなかった。もしかしたら誰かは他のグループでやってたかもな。でもあそこでは酒やタバコはなしだった。いいものを食べたりとかはあったけどな。
そこで録った、特に印象的な曲みたいなのはある?
そうだな、Q-Tipが"Footsteps"を作った時は、「このレコードはやばいぜ」ってなったんだ。でもそれから、この曲がシングルで出さなかったことにすごく腹を立てた。 まぁ何か理由があったんだろうけどな。
あの頃誰が月間の"レコードトップ10"いるか知るために、ビルボードのチャートにいつも目を通してたんだ。Sinead O'ConnorやJanet Jackson、Paula AbdulにMichael Bolton、そしてAerosmith。とまぁこんな感じだったんだけど、あの時君はそういう(有名どころの)音楽について、どう思ってたんだい?
俺はJanet Jacksonの大ファンだった。Sinead O'Connorも好きだったよ。あの頃はいい時代だったと思うよ。俺たちはヒップホップをやってたけど、別にヒップホップにすごく固執するわけでもなかったんだ。特にJarobiはね。やつは何でも歌うよ。あの頃俺たちは歩きながら"Walk Like An Egyprian"を歌ってたな。(笑)
"Ice Ice Baby"と"U Can't Touch This"も1990年だったよね。あんな感じのヒップホップについてはどう思ってた?
ノーコメントだ。終わり。Hammerのビデオはミーハーな女子たちが見るもんだ。分かるだろ?
Tribeはもちろんそういうのとは違う方向に行こうとしてたと思うんだけど、みんなが認識していた"ヒップホップ"とか"ラップ"に対しての挑戦的な姿勢で音楽を作ろうとしてたのは、意識的にしてたのかい?
俺たちはただ自分たちのやりたいようにしただけさ。でもみんなそうだろ? Hammerも多分そうだっただろう。全力でしてたし、それが彼なんだ。同じことさ。
LL Cool Jについてはどうだった? "Mama Said Knock You Out"をリリースしたのは"People's Instinctice Travels"が出てから5ヶ月後のことだったよね?
LL Cool Jはレジェンドだ。彼が90年代にやってたことについて何も文句なんか言うつもりはないよ。彼にも自分の時間があっただろうし、今はすごい俳優だ。もちろん未だに超ドープなMCの一人さ。LLで俺は育ったんだ。出身の場所も同じだし彼がラップしてる時から知ってる。彼がいずれビッグになるとは思ってたけど、どれくらいビッグになるかはわからなかったよ。
レーベルが君たちにコマーシャルにもっと出て欲しい、なんて意図を感じるようなことはあった?
たくさんはなかったな。多分Jive Recordsは俺たちの行きたい方向に気づいたんだろう。それだけさ。"El Segundo"のシングルを出して意思表示したんだ。「これがトライブだ。」ってな。それから彼らは俺たちのやり方でやらせてくれた。レーベルがコマーシャルに行くように仕向けるようなことは別になかったよ。
Tribeは聴いてる人にいろいろ考えさせるような曲が多いことで知られてるけど、ほとんど全部のATCQについての記事で"Afrocentric(黒人社会学)"って言葉が使われてる。これらの文化をとても大事にしてる? それとも別にそうでもない?
幾つかは本当のことさ。俺の母は俺をとても黒人らしく育ててくれた。とても黒人らしい家に生まれたんだ。Kwanzaaを祝うこともあるしそういった類のことさ。でもQ-Tipほど感化されてるわけではないんだ。ただ、俺は何が正しいかは分かるし、本当にラップがしたかっただけさ。確かに影響はあっただろうが、それに盲信することはなかったよ。着なければいけない衣服とかもあったけど別に着なかった。さっきどんな服を着てたか質問してただろ?俺はDashikis(民族衣装の名)も別に着なかった。確かにあれはかっこいいけど、蛍光色は好きじゃないんだ。
初めて店でA Tribe Called Questのレコードを見た時を覚えてるかい?
ああ、クイーンズのレコード屋に遊びに行ったらTribeのアルバムがそこにあったんだ。ハッとしたよ。なぜって、俺は何日に出るかなんて特に知らなかったからさ。あそこで見れた時はとても嬉しかったな。他の俺が買いたかったアルバムたちと一緒に棚に並んでるんだ。
その棚には他にどんなアルバムがあったんだい?
EPMDのStrictly Business、Big Daddy Kaneの最初のアルバムのLong LIve The Kane、Biz MarkieのGoin' Off、Boogie Down ProductionのCriminal MindedとBy All Means Necessaryだな。どれもお気に入りのグループやMCたちだ。その隣に俺たちのが並んでるんだ。最高さ。
そのレコード屋の名前は?
Jamaica AvenueにあるThe Music Factoryて名前だった。あそこにはDa BeatminerzのMr.Waltが働いてたよ。彼はDJ Evil Deeの実の兄なんだ。彼らはプロデューサーでBlack Moonのレコードをたくさん出した。Heltah Skeltahのレコードもたくさんやってたな。あとBoot Camp Clikの全部の曲。あの店に行って彼と遊んでたよ。
そこで一日中レコードをかけてた?
ああ。Tribeに本腰を入れる前は俺はそこで働こうとしてたんだ。あの時、俺はただ音楽に囲まれたかっただけだったんだ。
A Tribe Called Questが本格的に動き出してた時、君は若い人々を代弁してやっていたの?どういう意図があったんだい?
俺たちはもちろん若者に向けてやってた。その中でも耳を傾けてくれるようなやつらにね。Tribeだけじゃなくヒップホップは若い奴らのものだった。
"Can I Kick It"で君は市長のDinkinsについて言ってたね。君はいつもQ-Tipよりも軽めのラップだったと思うんだけど、何故政治についてのことを言おうと決めたんだい? Dinkinsが初のNYCの黒人市長だということはそれほど重要だった?
彼はNew Yorkを代表してたんだ。オバマが大統領になったことくらい大事なことさ。黒人の市長はとても少なかった。アトランタのAndrew Young、シカゴのHarold Washington、そしてデトロイトのKwame KilpatrickとDave Bing。たくさん起こることじゃない、とても大事なことだったんだ。俺が育った時代はKochが市長だったことしか覚えてないよ。
あの当時、NYの若い黒人の子達にとっての大事なことってなんだったと思う? 現在、警察とのことでいろいろ起こってるけど、別に何も真新しいことではないよね。
何も変わってないよ。警察は残酷さ。いい車に乗ると絶対に警察に付けられるか、道に寄せられる。本当に何も変わってない。悪くすらなってる。
もう既に悪化している? それとも問題が目に見えるようになってきた?
確実に問題が見えるようになってきてる。でもまだ悪化してると思う。警察のこと、そして差別。問題は無くならないんだ。
People's Instinctive Travelsが出た時のたくさんの古いレビューを読んだんだ。君のオリジナリティーについて様々な批評があった。Rolling Stone誌でさえ、あのアルバムは長くは聴いてられないって、大学のラジオがベストだなんて言ってたね。今思い返してなにか言い返したいことはある?
別にないな。最終的には全てはただの意見であって、もしそれぞれの人がそのように感じたことであるならそれは素晴らしいことなんだ。なんでもいいんだ。今でも彼らは同じことをしてる。でも全ていいことなんだ。
--終わり--