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和訳(3) [A Tribe Called Quest] Phife Dawg インタビュー 2015 : 25年の軌跡

引用元はこちら

1990年は世界中で激動の時代となった。3年後、ローランド・レーガンのあの有名なスピーチの後にベルリンの壁は崩壊し、冷戦は終わりを迎えた。サダム・フセインクウェートを侵略、湾岸戦争が勃発。そして、アメリカの文化もその姿を変えていったのだ。この年にはシンプソンズやセインフィールドが生まれ、ダンス・ウィズ・ウルブズは初公演を迎え、ベット・ミドラーは"Wind Beneath My Wing"でレコード・オブ・ザ・イヤーに輝いた。

ヒップホップでは、1990年にPublic EnemyFear of a Black PlanetIce CubeAmeriKKKa's Most Wantedといった、人種・政治・社会の経済的な不公平さに鋭く言及するアルバムが生まれた。そういった動きがある一方で、MC Hammer(彼の"U Can't Touch This"は翌年グラミー賞ベストラップソロ部門を獲得する)Vanilla Ice("Ice Ice Baby"でノミネートされる)のような派手なパフォーマーも出てきた。また全く異なるところでは、幅広くかつ知的な探求と鋭い意見、また商業的なアピールに見事なバランスを保った集団、ネイティヴ・タンが現れた。Queen LatifahDe La Soul、そしてJungle Brothersがこのメンバーに含まれる。

これらの動きの後を追って、混沌としたヒップホップを違った方向に導いていった集団がクイーンズとブルックリンのネイティヴ・タンのクルーにいた。彼らの名はA Tribe Called Quest。1990年4月10日、彼らはJive Recordを通じてデビューアルバムのPeople's Instinctive Travelsthe Paths of Rhythmを出した。メディアは即座に"Can I Kick It"、"Bonita Applebum"、"I Left My Wallet in El Segundo"などの代表作を取り上げ、そのアルバムはヒップホップの歴史の中でのちに、五つのアルバムの出版、そして解散、再開、ドキュメンタリーの作成ともっとも有名で理想的なキャリアの起点となった。

デビューから25年を記念し、彼らはアルバムを、Pharrell Williams, CeeLo Green, そしてJ Coleがリミックスを手がけたボーナストラックを付け加えて再リリースしようとしていた。そのため私はPhife Dawgにインタビューを行い1990年に今一度私を連れて行ってくれるようお願いしてみた。そう。彼がまだ、ただの子供でラップとバスケットボールの観戦をこよなく愛した、St. Albansに住んでいた頃の時代へ。

 

Noisey誌: 1990年頃はどんな生活を送っていた?

Phife Dawg: 俺は19歳から20歳になろうとしてた。実はまだおばあちゃんの家に住んでて表の路地でバカみたいに走り回ってたよ。ふざけてばかりさ。(笑) まだ本気でファーストアルバムに関わってなかった。俺がやったのは15曲の内の4曲だけだ。Q-Tipが全部の歌詞を書いたんだ。俺はスタジオにあまりいなかった。トライブはQ-TipとAliがやってたんだ。Jarobiと俺は後からさ。でもJarobiが料理の勉強のために大学に戻るってことになった。俺たちはクルーの一部だったけど本当の意味でのメンバーではなかった。The Low End Theoryに取り組むまで俺はメンバーにはならなかったんだ。

正式に加入した時はどうだった?

大人になるのに時間がかかったよ。でも母と父と祖母を経済的に助けれるってなって、どれだけ遊びじゃないかってことに、そしてどれだけリアルで素晴らしいかってことに気がついた。ゆっくりとしかし確かに俺は一人前になったんだ。もちろん他の人より成長が遅い人はいる、でも俺はただ頑固になってただけだとも言えるかもな。

どう頑固だったんだい? ただの友達とのいざこざ?それとも結構深刻なトラブルがあったの?

俺は別に訳のわからないことをするようなガキじゃなかった。そんなことじゃない、ただ時間を守ったりとか、人に対して敬意を払って接せれるかとか、自分にして欲しいことを人にもしてあげるとかそういった類のことさ。(現実は)Linden Boulevardや192nd St.だけが全てじゃなかったんだ。近所が全てではなかったんだ。俺はそういった部分で成長しなければならなかった。ビジネスマンにならなければいけなかったのさ。自分だけじゃなくグループの他の奴らをも背負ってるって自覚しなければいけなかったんだ。


Screenshot via YouTube

あの頃は何をして遊んでた?

クラブやコンサート、ニックス(NY Knicks)の試合にいくことかな。俺たちが最初のアルバムをレコーディングしたところはMadison Square Garden(マンハッタンの有名なスタジアム)から1,2ブロックほどの場所だったんだ。後、ほとんどの他のアルバムもBattery[Mastering Studios]でやった。そこもMadison Squareから何ブロックかのとこさ。

コンサートはどこに行ってた?

The Ritzだね。後はWebster Hall。いろんな場所があるよ。Marsってとこもあってそこもショーをやってた。クイーンズの高校のクルーと一緒に毎週火曜日の夜にNew Jerseyのスケートリンクにも行ってたな。もちろんそれはスタジオでの仕事がない時にしてたことだ。あれはローラースケートリンクだった。でも女の子はみんなそこに行ってたんだ。俺たちもそこにいたよ。ただスケートはしなかった。女の子を引っ掛けてたんだ。もし俺がスケートなんかしてたらコケて痛い目みるだろ?

当時はどんな格好をしてたんだい?

いつもジーンズとティンバランドだったな。俺はニュージャージーの人間だ。お前がニュージャージーで思いつく物は全て持ってたよ。天気によってはSnorkel jacketを着てたし、春はStarter jacketを着てた。それがいつもの俺のスタイルだったんだ。

君が最初のアルバムのレコーディングにあまり立ち会わなかったのは分かったけど、その時のことについて覚えてる? 

俺が覚えてるのは、ある部屋にはJungle Brothersがレコーディングしていて他の部屋ではDe La Soulもやってたな。Queen Latifahもまた違う部屋でやってた。Tribeの予定が特にないときでも俺たちはただ遊びにそこに行ってたんだ。あそこではコツを学んだりクリエイティブになれたし、とてもいい時間を過ごせたな。冗談を言い合ったりブースでいろいろやったり。俺たちは家族だった。Native Tonguesてのは名前だけじゃなくて、本当の家族のようなものだったんだ。

パーティーのような感じかい?君達は酒やタバコはスタジオでやったりとか、そんな感じではなかったの?

あれはそんな感じではまったくなかった。もしかしたら誰かは他のグループでやってたかもな。でもあそこでは酒やタバコはなしだった。いいものを食べたりとかはあったけどな。

そこで録った、特に印象的な曲みたいなのはある?

そうだな、Q-Tipが"Footsteps"を作った時は、「このレコードはやばいぜ」ってなったんだ。でもそれから、この曲がシングルで出さなかったことにすごく腹を立てた。 まぁ何か理由があったんだろうけどな。

あの頃誰が月間の"レコードトップ10"いるか知るために、ビルボードのチャートにいつも目を通してたんだ。Sinead O'ConnorやJanet JacksonPaula AbdulにMichael Bolton、そしてAerosmith。とまぁこんな感じだったんだけど、あの時君はそういう(有名どころの)音楽について、どう思ってたんだい?

俺はJanet Jacksonの大ファンだった。Sinead O'Connorも好きだったよ。あの頃はいい時代だったと思うよ。俺たちはヒップホップをやってたけど、別にヒップホップにすごく固執するわけでもなかったんだ。特にJarobiはね。やつは何でも歌うよ。あの頃俺たちは歩きながら"Walk Like An Egyprian"を歌ってたな。(笑)

"Ice Ice Baby""U Can't Touch This"も1990年だったよね。あんな感じのヒップホップについてはどう思ってた?

ノーコメントだ。終わり。Hammerのビデオはミーハーな女子たちが見るもんだ。分かるだろ?

Tribeはもちろんそういうのとは違う方向に行こうとしてたと思うんだけど、みんなが認識していた"ヒップホップ"とか"ラップ"に対しての挑戦的な姿勢で音楽を作ろうとしてたのは、意識的にしてたのかい?

俺たちはただ自分たちのやりたいようにしただけさ。でもみんなそうだろ? Hammerも多分そうだっただろう。全力でしてたし、それが彼なんだ。同じことさ。

LL Cool Jについてはどうだった? "Mama Said Knock You Out"をリリースしたのは"People's Instinctice Travels"が出てから5ヶ月後のことだったよね?

LL Cool Jはレジェンドだ。彼が90年代にやってたことについて何も文句なんか言うつもりはないよ。彼にも自分の時間があっただろうし、今はすごい俳優だ。もちろん未だに超ドープなMCの一人さ。LLで俺は育ったんだ。出身の場所も同じだし彼がラップしてる時から知ってる。彼がいずれビッグになるとは思ってたけど、どれくらいビッグになるかはわからなかったよ。

レーベルが君たちにコマーシャルにもっと出て欲しい、なんて意図を感じるようなことはあった?

たくさんはなかったな。多分Jive Recordsは俺たちの行きたい方向に気づいたんだろう。それだけさ。"El Segundo"のシングルを出して意思表示したんだ。「これがトライブだ。」ってな。それから彼らは俺たちのやり方でやらせてくれた。レーベルがコマーシャルに行くように仕向けるようなことは別になかったよ。

Tribeは聴いてる人にいろいろ考えさせるような曲が多いことで知られてるけど、ほとんど全部のATCQについての記事で"Afrocentric(黒人社会学)"って言葉が使われてる。これらの文化をとても大事にしてる? それとも別にそうでもない?

幾つかは本当のことさ。俺の母は俺をとても黒人らしく育ててくれた。とても黒人らしい家に生まれたんだ。Kwanzaaを祝うこともあるしそういった類のことさ。でもQ-Tipほど感化されてるわけではないんだ。ただ、俺は何が正しいかは分かるし、本当にラップがしたかっただけさ。確かに影響はあっただろうが、それに盲信することはなかったよ。着なければいけない衣服とかもあったけど別に着なかった。さっきどんな服を着てたか質問してただろ?俺はDashikis(民族衣装の名)も別に着なかった。確かにあれはかっこいいけど、蛍光色は好きじゃないんだ。

初めて店でA Tribe Called Questのレコードを見た時を覚えてるかい?

ああ、クイーンズのレコード屋に遊びに行ったらTribeのアルバムがそこにあったんだ。ハッとしたよ。なぜって、俺は何日に出るかなんて特に知らなかったからさ。あそこで見れた時はとても嬉しかったな。他の俺が買いたかったアルバムたちと一緒に棚に並んでるんだ。

その棚には他にどんなアルバムがあったんだい?

EPMDStrictly Business、Big Daddy Kaneの最初のアルバムのLong LIve The Kane、Biz MarkieのGoin' Off、Boogie Down ProductionのCriminal MindedとBy All Means Necessaryだな。どれもお気に入りのグループやMCたちだ。その隣に俺たちのが並んでるんだ。最高さ。

そのレコード屋の名前は?

Jamaica AvenueにあるThe Music Factoryて名前だった。あそこにはDa BeatminerzのMr.Waltが働いてたよ。彼はDJ Evil Deeの実の兄なんだ。彼らはプロデューサーでBlack Moonのレコードをたくさん出した。Heltah Skeltahのレコードもたくさんやってたな。あとBoot Camp Clikの全部の曲。あの店に行って彼と遊んでたよ。

そこで一日中レコードをかけてた?

ああ。Tribeに本腰を入れる前は俺はそこで働こうとしてたんだ。あの時、俺はただ音楽に囲まれたかっただけだったんだ。

A Tribe Called Questが本格的に動き出してた時、君は若い人々を代弁してやっていたの?どういう意図があったんだい?

俺たちはもちろん若者に向けてやってた。その中でも耳を傾けてくれるようなやつらにね。Tribeだけじゃなくヒップホップは若い奴らのものだった。

"Can I Kick It"で君は市長のDinkinsについて言ってたね。君はいつもQ-Tipよりも軽めのラップだったと思うんだけど、何故政治についてのことを言おうと決めたんだい? Dinkinsが初のNYCの黒人市長だということはそれほど重要だった?

彼はNew Yorkを代表してたんだ。オバマが大統領になったことくらい大事なことさ。黒人の市長はとても少なかった。アトランタのAndrew Young、シカゴのHarold Washington、そしてデトロイトのKwame KilpatrickとDave Bing。たくさん起こることじゃない、とても大事なことだったんだ。俺が育った時代はKochが市長だったことしか覚えてないよ。

あの当時、NYの若い黒人の子達にとっての大事なことってなんだったと思う? 現在、警察とのことでいろいろ起こってるけど、別に何も真新しいことではないよね。

何も変わってないよ。警察は残酷さ。いい車に乗ると絶対に警察に付けられるか、道に寄せられる。本当に何も変わってない。悪くすらなってる。

もう既に悪化している? それとも問題が目に見えるようになってきた?

確実に問題が見えるようになってきてる。でもまだ悪化してると思う。警察のこと、そして差別。問題は無くならないんだ。

People's Instinctive Travelsが出た時のたくさんの古いレビューを読んだんだ。君のオリジナリティーについて様々な批評があった。Rolling Stone誌でさえ、あのアルバムは長くは聴いてられないって、大学のラジオがベストだなんて言ってたね。今思い返してなにか言い返したいことはある?

別にないな。最終的には全てはただの意見であって、もしそれぞれの人がそのように感じたことであるならそれは素晴らしいことなんだ。なんでもいいんだ。今でも彼らは同じことをしてる。でも全ていいことなんだ。

 

--終わり--

 

 

 

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和訳(2) Kev Brownのインタビュー記事

原文(original) : KEV BROWN INTERVIEW : GRINDIN

文脈が噛み合ってないとことかあるかもしれませんがご容赦ください。 

 

アメリカのプロデューサー達にとってブラジルは、別に旅行するのに変なところでもなんでもない。では、一体何がLow Budgetのラッパー兼プロデューサーのKev Brownの話が脚光を浴びる要因となったか? それは彼がブッキングした二つのショーにある。一つはリオデジャネイロ、もう一つはサンパウロのショーである。

ブラジルに行った理由は?

Kev: ショーがあったんだ。ちょっとしたミニツアーさ、サンパウロリオデジャネイロにね。ドープだったよ。二つの雰囲気の違ったエリアなんだ。サンパウロの俺が居たところはもうちょっと都市って感じのところで、ビーチとかいろいろあって、それでも一つのでかい都市なんだ。あそこにはいろんな文化があったよ。アートが好きな人たちもたくさんいて異なる生活文化が入り混じっているんだ。リオは観光地として有名だ。コパカバナとかね。でももちろんそれだけじゃないさ。ブラジルは発展途上国だろ?だから全部が魅力的で素晴らしいってもんでもなかったんだ。

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で、予定してたより長く滞在したんだって?

Kev: ああ、ショーとか他にもいろいろドープなものだった。でもまぁ、もうちょっと長居するよう説得された、とでもいうかな。これ以上はもう言わないでおくよ。

ブラジルでの経験はどんなものだった?

Kev: あそこは文化がとても豊かさ。ブラジルについて説明するのは難しいね、なぜかって俺は二ヶ月しか向こうに居なくてあまり周りが見えてなかった。だから簡単に説明は出来ないよ。でもいろいろと向こうの文化に触れたよ。カポエラとかね。俺は何も...顔にキックを喰らおうとなんてわざわざしなかったけどね。なぜならそれはダメだからさ。本当のカポエラだからな。Pai Luaには感謝するよ。彼と彼の友達が俺をカポエラの場所に連れてってくれたんだ。そして俺は実際に本当のやつを見たんだ。音楽が演奏される中、彼らはひっくり返ったりいろいろしてたよ。ヤバかったね。

あと、向こうにはなんでもあるんだ。アメリカ人はすべての種類の音楽が聴けるだろ? でもブラジルの方では、たとえばソウル、あそこにはブラジルのソウルミュージックがあるし、ジャズもある。おそらく長い時間をかけてもすべてのソウルミュージックを細かく分類するのは出来ないほどだろうね。彼らには自分たちのソウルミュージックがあるんだ。ジャズもね。いろんなジャズがあってとても豊富さ。もちろんサンバ、ボサノバもブラジルから来てるしね。あるジャズの曲やみんなが毎日聴いてる音楽もそうだよ。たぶんみんなが気付いてないだけでね。

カポエラ参考動画

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どういう経緯で"Brazil Dedication"を作るに至ったんだい?

Kev: えーと、俺は場所がどこでも関係なくビートを作ってたんだ。たくさん作ったよ。ホテルや友達の家、スタジオでもね。それでいくつかの曲はブラジルのアーティストともやろうと予定してたんだ。だからその時はちょうど彼らとするために新しいビートを作ってたな。家に帰ってクルーのみんなに長めのビートテープを聴かせてから他の友達にも聴いてもらったよ。「これを公開するのかい?それとも…」彼らはこう聞いてきた。そして滞在の最終日にむこうのレーベルはこう言ってきたんだ。「ヘイ、なにかやりたいプロジェクトはないかい?」…むしろ、やらないわけないだろう? 俺はブラジルに行った。すごくいい経験になったよ。

Bailie Black Remixについて話してくれ

Kev: YouTubeにいけばオリジナルを聴けるよ。(そのオリジナルの)アーティストの名前はHyldonというんだ。リオでショーをやったときにその向かいに出ていたDNGって名前の、服を売ってる屋台があって、そこで彼と出会ったんだ。そのときは本当に一緒に仕事をすることになるとは思ってなかったけど、まぁ世界は狭いな。後に彼を知ってる人と何人か出会って結局一緒にやることになったんだ。彼は俺にRemixをしてくれと頼んできた。だからとりあえず彼のショーを一つ見に行ったんだけど、あれは凄かった。俺をライムをさせるためにステージに呼び出してきて、しかもみんな俺のこと知ってるようだった。あんなこと滅多に無いさ。俺はラッパー一筋ってわけでもないし、とにかくとても驚いたよ。で、その後彼とまた会ってRemixを頼まれた。D'angeloみたいなのにしてくれって言ってきたのはよく覚えてるよ。一応いいよって言ったけど、俺は彼がファンキーでソウルなやつをやりたいと思ってたんだ。そしてそのあと彼は音源を全部くれたから、それをPai Luaの家に持って行った。彼もまたブラジル出身のMCだからね。彼の家に泊まったよ。彼のお母さんが毎日ご馳走してくれるんだ。やばいだろ?

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本来のブラジルを見てきたかい?

Kev: もちろんさ。Kev Brownのツアーって感じでは絶対なかったよ。単に俺がブラジルにいただけさ。いろんな人に出会ったよ。もちろん今話してることはただの二ヶ月間の旅の話だけどね。でも見たよ。彼の家で彼はアルバムを作ったりしてたし、俺もそのためのビートを作ってた。

出会う前から彼らは君のことを知っていたのかな?

Hyldonが知ってたかどうかは分からない。ただ、Pai Luaはもちろん俺のことを知ってたよ。ブラジルに行く前に彼とはFacebookで連絡を取ってたからね。でもHyldonはいろいろ詳しいんだ。電話でPai Luaの家にかけてきて彼と話したのを覚えてるよ。Alicia Keysを聴いてたんだ。つまりいい音楽を知っているのさ。しかしそれでも、スタジオのセッションに混じったり実際の演奏をサンプリングしたりってのは普通じゃなかったな。

それはどんな感じだったんだい?

とてもイケてたよ。クールだった。いつもと違うのは、俺はいつもサンプルを弄るんだが今回のはすでに十分ヤバかったからあまり弄ることが出来なかったってことかな。いつもなら俺がサンプリングしたやつはすべて変わるんだ。ある程度の自由が効くのさ。ピッチも変えれるしチョップもする。ただ彼は歌手だからあまり変えすぎたりすることは出来なかった。それでもベースラインは入れれるし少しギターもチョップすることが出来るから少しだけ違うものにしたんだ。ドラムも変えた。ホーンのところはそのままさ。70' discoって感じだろ? まぁYouTubeでオリジナルを見てみてくれ。Soul Trainのクリップが実は入っててみんな踊ってるんだ。でもRemixの方はもうちょっと… Battlecatの曲のようだってみんなに聴かせたらそう言ってるから、そんな感じだな。

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向こうでは何をするのが好きだった?

スタジオでのセッションと友達と一緒にいる事以外では…そうだね、ビーチに行くのが好きだったな。俺は前までビーチに行ったりするようなやつじゃなかったんだ。アメリカでのビーチに行った回数なんか片手で数えるほどさ。でもあそこでは海に入ったりいろいろしてたしそれが普通だったんだ。シャツと短パンで毎日遊んでたよ。笑  もし停電なんか起きても別に彼らは動じないだろうね。ショップでも、ろうそく点けて電卓使って終わりさ。電気なんかに頼らないんだ。

ブラジルは発展途上国としてどうだった? 何か衝撃的な事はあったかい?

ああ、間違いなくあったよ。ハードコアなんだ。あそこにスラム街があって衝撃だった。普通リッチなやつらは山の方に住んでるって思うだろ? もちろんそういう場所もあるんだけど、山の方にもスラムはあるんだ。あれは見ていてとても変な気分になる。山だぜ? 裕福なやつらは山の方にいるから、銃とか麻薬(crack)が街に来たとかそんなやばい話を教えてくれた。イメージしてみてくれよ。あれは少なくとも俺らにとっては初めてでも彼らにとってはそうじゃないんだ。多分何年か前にもあったんだろうな。政府についてもいろんなやばい事があったよ。ブラジルもいろいろ問題があるのさ。女性の扱われ方とか、沢山あるよ。

なるほど、そういえばブラジルの旅を本にするつもりだって言ってたよね。どんなテーマになるんだい?

映画になるだろうな。そしてDenzel Washingtonが出演してオスカー賞に輝くのさ。笑  冗談は置いといて、いくつかのショーのシーンは絶対に使う事になるだろうね。ビーチも使う。アクションとかそんな感じにはならないな。多分ドラマ、ドキュメンタリーのようなやつさ。それでもブラジルのことだけになるだろうけどね。おれの一生涯を描くようなやつにはならないよ。「見ろよ、これがおれがブラジルで過ごした時の生活さ。あそこに行って結局二ヶ月過ごしたんだ。」みたいな感じだろうね。ほら、もうこれで映画になるじゃないか。何が起こったのか、何がおれをそこに居させたいと思わせたのか。そして帰る時の様子。でも見る側に想像させる余地を残さないとね。"Brazil Dedication"を楽しんでもらえるように。

思い返してみるとブラジルに行ってから君は変わった?

変わったね。一つ目に、ミュージシャンとしてね、ブラジルにはファンがいるだろう?  これはWellington(New Zealand)や他の国に来た時に一つ気付いたことなんだが、オーストラリアとニュージーランドである日、俺を連れて来てくれた友達は「この寒い天気を曲にしようと思う」って言ってて、ちょうど俺も同じことを考えてた。 そして俺をブラジルに連れて来てくれた友達は「ヘイ、お前が冬に曲を出しても、こっちに来る頃は夏なんだぜ。」て言ってくれたんだ。もう頭が吹っ飛んだよ。俺は秋に曲が出ると思ってたからね。外は寒くて木から葉が落ちたり、あの季節だ。ドライブが好きな俺たちのまわりのやつらがいるから、いい天気の時は一緒に車に乗ってLow Budgetの曲を流すんだ。 でもブラジルでは毎日夏だろ? ミュージシャンもそこではオープンになるんだ。 よくミュージシャンって視野が狭くなりがちだからね。でもオープンになれるから刺激になるんだよ。 そしてそこのみんなは俺の、Kev Brownの新しい曲を待ってるのさ。そしてビーチに行ってKev Brownの曲を流すんだ。ドープだろ?

 

 

Interview by Aleyna Martinez

 

 

 

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和訳(1) "In The Lab" with Pete Rock インタビュー

原文:In The Lab with Pete RockNah Right

Interview with Pete Rock translated to Japanese.

これはピートロックのインタビューでそれを(勝手に)和訳したものです。J Dillaとのことや日課などが垣間見れて面白かったので訳してみました。えー著作権がどうとかいうのはややこしいんで、警告があれば速やかに削除しますが、なければこのままということで。

おそらく元の記事は2013年あたりのものだと思います。意味が歪んでしまうのが怖かったんで、どちらかというと直訳気味に訳してます。

 

--イントロ--

タッパン・ジー・ブリッジを渡ってロックランド郡の郊外に、パリセーズモールからわずか数分、マウントバーノンの故郷から30分ほどで、地下でビートを調理し続けている伝説的なプロデューサー、Pete Rockはまだ曲を作り続けているでしょう。彼のセットアップは、ちょうど彼のターンテーブルと彼のサンプリング/レコーディング機器との間で操作するのに十分なスペース、およびボーカルを録る場所も兼ねている小さな応接間で、ささやかな、居心地の良いものでした。壁には超人ハルクのサイン入りポスター、その上には"The Main Ingredient"の時の古いピートとCLスムースのポスターがレコードの巨大な壁と共に飾られていました。それに加えて、レコードの複数のスタックと床に漫画本、彼の家族写真、直接MPCの上に座っている友人J Dillaの財布程の大きさの写真。かすかに木の匂い、ヒップホップの職人的な香り。まさにここはPete Rockの研究室。そして、我々はそこにいるのです。

我々の「In The Lab」での初めてのインタビューは実際のスタジオの中で行われました。チョコレートボーイワンダーと共に座り、彼の息子のディナーの準備が出来るまで、彼の日常やサンプリングのプロセス、ニューヨークのレコードを掘る時に行くお気に入りの店、初期の頃のDJや曲の作り方をマウントバーノンの地下で勉強していたことについて、そしてCamp Loとの新たなミックステープのプロジェクト「80 Blocks From Tiffany's Pt. 2」、CLやカニエ、ディラ、ヘビーDらとの仕事についての語ってもらいました。

ソウルブラザー#1ピート・ロックの世界へようこそ

 

 

--インスピレーション--

Pete Rockビートを作り始める前にブラックスプロイテーション映画を見るのが好きなんだ、少なくとも一つか二つはな。ブラックシーザーブラックシャンプーハーレムの首領(邦題)吸血鬼ブラキュラ(邦題)。ブラックでソウルな映画ならなんでもさ。

たまに別のことをして刺激を貰うこともある。街(多分Manhattanのこと?)まで降りていったりマウントバーノンからロックランドへ行ったりとかな。帰ってハッパ、ただコミックを読んだりってのもある。スーパーヒーローズ(コミック)からなにかドープなことをするためのヒントを得たりする。ああ、あとたまに衝動を感じるんだ。体が教えてくれる。「ビートを作れ」ってな。笑

 

--日課--

Pete : 早起きしてここ(地下)に入るのは好きだね。息子にキャンプの準備をさせて、コーヒーを作り、料理した後にここ(地下)に来るんだ。んで始めるのさ。[もし夜なら帰ってきてから]、ドアまで行って俺の家が無事か、ゴミを掃除して息子が歯を磨いてテレビゲームをやりすぎてないかチェックする。で、息子をベッドに連れて行ってから地下へ向かう。

[初めは]まだ俺が聴いてない山積みのレコードを掘るところからだね。ちょうどフランスからヨーロッパのレコードを持って帰ったところだったはずだ。掘る準備は出来てる。俺はいい音ならなんでもいいんだ。ループ、ブレイク、常にブレイクやサンプルみたいなもんばかりじゃなくていいのさ。[新しい音を求めている、例えば]上品な聴こえのする音楽。みんな今はクラシックをサンプリングしている。自然なことさ。誰も踏み込んでいないジャンルに行くんだ。

俺はまだ古いソウルのレコードをサンプリングしているけど、他のいろんなのものとミックスさせている。エレクトロ、レトロ...いくつかのファンキーなディスコ、すべてをね。もちろん君にもまだまだ使われていない70'sソウルのレコードをたくさん見つけられるさ。ほら、みんなもうほとんど掘らなくなったしね。残った宝石はみんなDJ Premier, Alchemist, Large Professor, Nottz, そして俺たちみたいなまだ掘り続ける人のためにあるんだ。

ビートを作っている時にハッパを吸うのは好きだよ。長いあいだ吸ってなかった時は特にね。巻いてるやつだ。そしていい音楽を聴いてるといい感じになるのさ。ワインを一杯飲むのもゆったりするのに良いね。ビートを作ることと同じようにハッパを扱うんだ。年齢なんて関係ない。ハッパのビジネスはすごく嫌いだけど、それでもクリエイティブな面は大事にしているのさ。

俺は針をレコードの初めから落として全部通して聴く。ハッパを巻いて吸う頃には、もう聴こえているよ。Aサイドを聴いてみよう、たまにやばいのが来るんだ。どんなレコードかとどこに気づくかにもよるけどね。

時々レコードを聴いてると、針を上げる必要が無い時がある。"うぉ、やばいやばい!"みたいな、何回も聴くんだ。それからBサイドに移る。それが俺の探し方さ。すべて聴いて、ドープなところを見逃していないか確認するんだ。特に、もし初めて聴くレコードがあればその中の曲でなにか作る。それから次のレコードに行くのさ。

曲を見つけたら、例えばレコードの好きな箇所を見つけた後は、調節してみる。チョップしたり、音の場所を入れ替えたりね。これを読んでいる若いプロデューサーでサンプリングでの作曲に興味があるやつは、絶対に自分の耳で作っていくべきだ。人をリズムにノらせたり何か響かせたりしたいだろう? 君の頭にリズムをキープしていたいはずだ。俺は俺が良いと感じるものすべて用いて、そしてそれらをうまく合わせる。 でも、まず君は耳を鍛える必要がある。良い音楽を聞き続けるんだ。アルバムをどこに行っても持ち歩くんだ。それから何か作り始めるのさ。

俺には出来上がったビートが必要だから、いつも余分にビートを持ってるよ、このゲームのトップに居続けるためにね。ここに降りてきたら少なくとも4, 5曲は作る。昔よりだいぶ作るのが遅くなってきたよ。[昔は]1日に10から15曲は作っていたからね。家で作り始めて、完成させるためにでかいスタジオにそれを持って行くんだ。EQを入れるかどうか、始めにもっと曲をいれるかどうか、もっと音を加えるかどうか、とかね。

ここで仕事をするのは好きだな。家として、世界で一番心地いい場所だ。Rocklandの近所あたりでは誰にも邪魔されないからな。そういうところがいいね。

 

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--ニューヨークで掘る、過去と現在--

Pete : A-1[レコード屋]はNYで誰もが知ってる店だ。それと、Jazz Centerと他にはHouse of Oldiesって呼ばれてるCarmineだな。Bleecker Bob'sがまだやってんのかは分からない。あと、ある日ドライブしてたらレコード屋のある骨董品屋街を見つけたんだ。あれはThompson Streetだったよ。

そういえばGalleriaとNoda'sとかの向かいのWhite Plainsに昔vinylも扱ってるレコード屋があったな。そこに行ってあるもの全部買ってやったよ。いい物ばかりだったんだ。それと、今はもう亡くなったRoger[R.I.P]って奴がCity Islandに店を持ってた。みんなそこに通っていたよ。もちろん俺もそこに行ってたくさん買った。後で、Naughty By NatureのKay Geeがそこに来て掘ってるってのを聞いたな。でもDiamond DやShowbizとかそういったやつらはいつもそこに通ってたよ。

マウントバーノンの靴屋が固まってる場所があって、そこにある店の窓にレコードがいくつか飾ってて、All Souled Out EPの"Go With the Flow"のサンプルはそこで見つけたんだ。あの時はアルバムでたったの1ドルだったんだけど、今はそのこと(サンプリングされたこと)は有名だからすごく値が張るね。えーとそれから、YellowbirdとMount Vernonとthe Bronxはすぐ隣どうしだったんだ。だからthe Bronx、そしてMoodies、Nu-Lookに行ってたな。ああ、でもその前に70年代から80年代あたりはBrad's Recordsに行ってた。

レコード集めは父親[R.I.P]から受け継いだのさ。"Mecca and the Soul Brother"の曲は父親のコレクションからたくさん来てるよ。父の持ってたジャズ物をたくさん使ったな。Kool & the Gangの45sとかMoundsの45sとかも持ってたんだ、今は俺の物だけどね。父はなんでも持ってた。Jazz、RockにSoul、特にReggaeだ。何故って、俺たちはジャマイカンだからな。

みんながレゲエをサンプルするのはとてもCoolだ。いいね。要はどれくらいクリエイティブかってことさ。チョップのやり方とかね。俺も何回かやった[サンプリングした]ことがある。たしか"NY's Finest"の曲とHeavy D[R.I.P]の幾つかの曲だな。後は"Soul Survivor"のHeavy DとBeanie Manとやった"Massive"って曲だ。

 

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--マウントバーノンの「地下室」--

Pete : 俺はいつもビート作りにわくわくしてた。特に昔地下で父の持ってたお宝を掘っていって見つけて「さあどうやってこれを使おう」なんて時はね。持っていた機材はターンテーブルが二つ、ミキサー、アンプ、カセットテープのデッキ、そして幾つかのサンプラーだ。S-950とSP-1200をだったな。それらをその時は使っていた。後はゲートとかリバーブとかマイク用のラックマウント、それだけさ。今ここにあるのをその時も使って録音してたよ。'91年に俺が成功する以前のものはすべてここで作られたんだ。

 

そして何人かラップする奴が近所にいてそれがすべての始まりだったよ。地元のやつらとただやってただけさ、でもCLと出会うまで誰も有名にはならなかった。彼の声は良かった、ラップのやり方もね。だから「こいつと一緒にやってみたい」って感じで友達になったんだ。そして最終的にデュオになった。やつは[他のラッパーとは]違ったよ、声もね。俺はオリジナリティーが好きなんだ、だから俺たち独特のなにかを求めていたんだ。

 

やつが来る時はライムもすでに出来てた。だから俺はカセットを作ってビートを入れて渡してあいつは家でライムを書く。そして準備が整った状態でスタジオに集る。俺はそういうとこが気に入ってたよ。あとやることは修正だけだからな。あいつはスタジオでは絶対にライムを書かなかったよ。 

 

--Camp Loと80 Blocks From Tiffany’s Pt. 2の仕事について--

Pete : ミックステープは今ではアルバムと言っていい。新しい「言語」だ。そして俺はあれ[80 Blocks From Tiffany’s Pt. 2 ]をミックステープとして、ギャラなしでやろうと決めた。なぜならあの当時ラジオからは本当の音楽を聴けなかったからなんだ。本当の音楽が必要とされてたんだ。だから、あれをタダでコミュニティーのみんなに配ったよ。それが俺にできることだった。今でもアルバムをタダでも作れる。道端に行ってショーをすればいいのさ。

俺たちはいい感じの小さなパッケージに詰め込むつもりだ。もしそれらが広まってくれれば嬉しいね。残るはこれに一枚噛んでくれるプロモーターだな。

俺はプロジェクトのために30のビートを渡したんだ。そして新しいビートを三つ用意した。隠し場所に温めてたやつさ。俺はディスク、フロッピー、Zipを探したよ、'99や2000あたりのやつだね。"Glitter and Gold" これを作ったのは '95の時だ。確かSP-1200だよ。引き出しから見つけだして、「ああ、多分このサウンドは合うだろうな」って感じにね。Nasとやった時と一緒だ。俺はNasにもビートを30個あげたんだ。多分1年くらい前かな。合わせて60だな!でも俺はただ言ったんだ、「欲しいやつはなんでも持って行ってくれ。ラップしたいビートならなんでもな。他で必要なやつでもいいさ。」

俺たちはアルバム作りをすべてここで行った。今君(インタビュアー)が座ってるまさにそこさ。Suedeはライムを書かなかったよ、ただうろうろと行ったり来たりしていたんだ。多分頭の中で書いてたんだろう。あれはいいね。しかもライムはひねりが効いてて速かった。言い争いもあったけどそれでもそこにはお互いに対する尊敬があったんだ。彼らとは一緒に仕事をしていて楽しいよ。つるむのもね。彼らはラップしたいビートを持ってくるんだ。俺と一緒に働いてくれるエンジニアDave Darと一緒に仕事に入ってたよ。

DaveはPro Toolsを使ってて、俺はして欲しいことややり方を彼に伝えるのさ。彼は上手いことしてたよ。ただ仕事をこなすだけじゃなく本当の音楽を理解していたんだ、だから本当に仕事がやり易かったね。NYを知っているプエルトリカンだ。

 

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--ラップを書くことについて--

Pete : 俺は書きたい時に書くんだ。どんなビートかにもよるけどね。携帯に書くやつらを知ってるけど俺はいつも紙とペンだ。the GameがそれをBlackbetty[携帯]でやってるのを初めて見たよ。バース、それからフックにいきそのあと次のバースってな感じにね。

  

--DJのスキルの練習--

Pete : もちろん今でも地下で練習はするよ。クラブに行って技を磨くし他のやつらが何でロックしてるか見たりもする。そしてそれを参考にするんだ。新しいやつは全部聴いてる。Slaughterhouse, Nas, Kanye, Kendrick, Joey Bada$$, Action Bronson, Mac Wildsとかね。無視できないさ。この前Macの曲を二曲ほど流した。

DJのやり方を習ったのは7歳の時だ。レコードを擦るのがとても好きだったんだ。いとこのFloydからスクラッチのやり方教えてもらったよ。一日中擦ったりカッティングしたりして外に出たくならなかったんだ。

 

--ハワイでKanye Westとの"My Beautiful Dark Twisted Fantasy"について--

Pete : あれはでかい場所だった。二階もあるんだ。彼は一度に三つのプロジェクトを手がけてたな。入ると"No Twitter"って書いてあった。俺がいた時には、Rick Ross, Kid Cudi, 他にもたくさんの人がいたよ。Kanyeはすごく音楽的で異色なタイプの男だ。隣の人よりも一歩先に出ようとするんだ。そういうところが好きだね。とても才能があるし音楽の知識も深い。彼は俺のイントロをどうやってサンプリングしたか教えてくれたよ。もう「オゥ、ナイス」って感じだった。

そこから火がついたんだ。俺は彼に8つほどビートを流したよ、そこを彼は3つに絞ってからさらに一つに決めた。"The Joy"って曲だ。そして俺にライムを乗せるように言ってきたんだ。「いや、俺は準備が出来てないよ。」て言ったな。"The Joy"を流し始めたて俺が外にいる間にもうライムを乗せてたよ。速くてとてもリリカルだった。

 

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--Roc Marcianoとの仕事は?--

Pete : あいつは俺のダチさ。NYの洗車場で会ったんだ、その時はあいつと一緒にBusta Rhymesもいたよ。そこであいさつした後、つるむようになって一緒に仕事をするようになった。あいつは本物の音楽が分かるやつでファンキーなのが好きだったな。そこから完璧に仲良くなったよ。ファンキーな曲は俺は得意だしな。しかもやつのライムはドープだった。そう、俺はあいつを人々に知ってもらうよう働いたプロデューサーの一人なのさ。

 

 

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--好きなスタジオは?--

Pete : Greene St. は長い間拠点として使ってたところの一つだね。あそこはヒップホップに最適の場所だった。あそこで鳴る音がすごく好きなんだ。スピーカーは音がでかくて乾いた音が出る。曲を作った後にそこで流してもスピーカーが飛ぶ心配もしなくていいし全く問題がなかった。Public Enemyもここを使ってたし、Run-DMC, EPMDも使ってた。名前を言ってみなよ。全員だ。The Bomb SquadがIce Cubeのアルバムのためのセッションしていた中に居て聴いてたことがあるよ。[Amerikkka's Most Wanted]

  

 

--Dillaとの作業--

Pete : J Dilla(R.I.P)は堀り職人さ。選曲、彼の聴いていた曲。80'sのレコードを持ち出すんだけど、それを見て「何に使うんだそれ?」てな感じだった。あのレコードの使い道なんか想像もつかないんだけど、あとで彼はちゃんとやばい部分を見つけるんだ。

とても謙虚でシャイなやつだったね。でもそれは彼と仲良くなるまでの話だ。一緒にスタジオでいた時は本当に最高さ。すでにお互いに知ってたからね。俺の曲を(dillaは)知ってたしおれも(dillaの曲を)知ってたよ。あの二人のドープなプロデューサーがアイデアを出し合う時は興奮したさ。俺がカセットに曲を流して彼がはしゃぎだすのを見るのはとても嬉しかっな。そして俺がどうDillaに影響を与えたのかも教えてくれたよ。でも彼のビートはマジでやばかったんだ。

MPC3000を使ってたのを俺は見たよ。俺がまだSPで作ってた時のことだ。そして3000での作業を見たあと俺は2000XLを買いにいってそれで作り始めたんだ。俺はDillaをみてるだけで楽しかったよ、そして「どうやってんだこれ?」なんてことは聞かなかった。ドラムマシンで何をしてるのか分かっていたからね。でも見ていると「おい、ドラムマシンでこんなこと出来るのかよ!」みたいな、ただ彼はマシンの奥深さを俺に見せつけたんだ。 

 

 

--Large ProfessorQ-Tipとのこと--

Pete : Large Proと掘りに行くのはいいね。とてもレコードの知識が深いんだ。そして掘りに行かなければ何も見つからない。だから新しいことも彼から習ったし、お互いに教え合っていたよ。Largeの曲作りを聴いてるのは楽しいね。彼はちょっと外れてるけど、いい意味でね。いいと思う音はなんでも使うよ、Q-Tipもそうだ。Tipもレコードに詳しいし掘るのも上手いんだ。いいレコードを見つけてくる。彼らのようにする若いやつを俺はまだ知らないな。うーん、Alchemistは若いとは言えないな。Statik Selektahが掘るのかは知らないけど、彼の曲を聴いてると掘ってるだろうと思うね。

  

--Heavy Dとのこと--

Pete : 彼は家族さ。子供の頃から知ってるんだ。あの頃は地下で一緒に作ってたよ。書くライムは楽しいことばかりさ。食べたり飲んだり書いたり音楽を聴いたり、まるで兄弟のように遊んでたんだ。

彼は完璧主義だったよ。いい音がなるようにちゃんとした方法でレコーディングしたがるんだ。観客たちのことも考えるしどのようにみんなが受け止めるかも考えてた。本当に作り込んでたよ。そして彼は俺に観客の隅々まで気を配って大事なことを押さえなければならないということを見せてくれたのさ。

 

 

 

 

 

 

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